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ベルリンの壁開放から20年 差別と生活不安
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『週刊 新社会』 2009年11月17日号より
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89年10月29日、シャボフスキ東独与党政治局員(当時)はモンペル・西ベルリン市長(当時)との会談でまもなく東独は市民の旅行規制を解除すると示唆、大量の市民の流入態勢について討議した。
11月6日、コール政府は壁開放措置について承諾、9日午後8時30分、東西ベルリンの検問所1カ所が開放された。11時半までに各検問所が開放され、1週間で200万人が往来した。1年後、ドイツは再統一を果たした。
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多数の東独市民は89年8月から「ピクニック計画」でハンガリーのショプロン経由でオーストリア、西独へと合法的に渡っていた。
オーストリア側の国境検問所は9月10日午後6時のハンガリー政府の一時的国境開放発表を待ち、11日午前0時実施に合わせてバスを並べて待機。赤十字ボランティアがサンドイッチ、道路地図、ガソリン・クーポン、現金入りのバスケットを用意して西独への入国支援態勢をとっていた。
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同月中旬からは5000人超の東独市民がビザを求めてプラハの西独大使館を占拠、30日にはゲンシャー西独外相(当時)が「特別列車で旅行を許可する」と発表、10月1日から8日まで「フリーダム・トレイン」が「プラハーホフ」間を走り、身分証明書携行だけで1万5000人が西独に入った。
9日からはブダペストやプラハまで行かなくてもベルリンから直接、西独に入れる態勢になった。4週間後、ベルリンの壁が開放された。
統一後、東部の代表的現代建築物である国会議事堂、青年スタジアム、レストラン、映画館は解体された。
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20国後、東部は失業率と過疎化率が高い。旧西独市民は増税に、旧東独市民は20%割安賃金に不満を持つ。(富山) |
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