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2016.09.20
辛淑玉連載 たんこぶ
感動の押しつけ
連載第454回
 
 

 国威発揚のための利権金権イベント、オリンピックがやっと終わったと思ったら、今度はパラリンピックが始まった。
 どちらも「平和の祭典」だというが、メダルが取れないとお詫びしなければならないスポーツって、平和なのか? アマチュアリズムはどこに行った?
 IOCは「俺たちいい人だろう」と言わんばかりだが、パラリンピックからは、日テレの24時間テレビと同じ匂いがする。
 そう、障がい者を出して、努力させて、感動物語にしている。健常者と呼ばれる側の視点で貫かれた「障がい者の能力競争」だ。
 確かに、選手たちは死にものぐるいで努力したのだろう。その努力は賞賛に値する。
 しかし、別の側面から見れば、健常者の大会の開催後におまけのようにつけられて、頑張ったものだけが褒め称えられる大会だ。名誉健常者としての「モデル障がい者」を作っているようにも見える。
 そこに連なる思想は、健常者、健常者に近い障がい者、頑張る障がい者、そして、頑張らない障がい者、頑張れない(重い)障がい者、という序列を作る思想だ。その先には、税金のかかる障がい者、殺してもいい障がい者と続く。
 どうあがいても運動すらできない人たちは最初からカヤの外。第一、「障がい」というのは、本当に千差万別なのだ。一律にできるスポーツなんて限られている。
 それなのに、「感動をありがとう!」なんて言われると、むかついてしまう。その言葉の裏に「可哀想な人たち」という、上から目線が透けて見えるからだ。
 不便を強いられる人たちが頑張る社会ではなく、どんな障がいがあっても、それを不便と感じないで済む社会作りがどうしてなされないのか。
 パラリンピックなんてやっている暇があったら、社会が障害になっている人たちの、その「障害」を取り除く政治をきちんとやるべきだ。
 健常者への感動の押し付けより、車椅子の人が、好きなときに好きな店に行って、安心して飯を食える社会のほうが、ずっと豊かだろう。



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