今週の新社会

2024年新春〝100歳〟対談
福田 玲三さん
北村 小夜さん

2024/01/01
内外の「この100年」を語り合う

侵略の歴史の反省を 福田
憲法を社会の実態に 北村
  

 ■あけましておめでとうございます。今日は「100歳対談」で戦前・戦中・戦後の話を伺いたいと思います。まずは自己紹介から。

福田玲三さん 

 関東大震災の3カ月後に岡山県で生まれました。大阪外語学校在学中の43年に学徒出陣し、インドネシアに出征しました。九州を出てすぐ潜水艦に襲われましたが、逃げのびることができました。教育隊所属だったので、前線で戦うことも残虐行為もしなくて済みました。 敗戦後の1年余、英軍指揮の下で開拓作業に従事し、47年10月に帰国しました。49年に国鉄労働組合の文化部書記に就職し、84年に退職するまで労働者文学などに関わりました。2014年に「完全護憲の会」を設立し、共同代表を務めています。 

北村小夜さん 

 1925年福岡県生まれです。軍国少女でした。ボーイフレンドが大学予科の学生で、戦死したら靖国神社に行くというので、私も行きたいと、女で靖国神社に行けるところを探し、京城(現ソウル)の日赤看護婦養成所を卒業して、旧満州で陸軍病院に勤務しました。 そこで敗戦を迎え、1年後に引き揚げてきました。50年から85年まで東京で教員を務め、日教組の活動に参加しました。65年に大田区立中学校で特殊学級(現在の特別支援学級) の担任となり、「子どもを分けてはならない」ということに気付きました。以後、障がい児が地域の普通学校で学べることを目指す活動を続け、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の世話人を務めています。 

■新憲法をどう受け止めましたか。 

福田 
復員したら憲法ができていて、憲法を意識したのは70年頃から。天皇条項は後で変えることができるので、今は全条文を完全に実施することが大切だと思うようになりました。第2次安倍政権ができて、危機感を感じて「完全護憲の会」をつくりました。 

北村 
最初の小学校4年生の社会科の授業の時、それまでの教える・教えられるではなく、子どもが考える教育に変わり、憲法第1条を教材にしました。「象徴」って何だろうと、何日もかけて出たのが「あってもなくてもいい」ということ。子どもたちにはそう映ったのでしょう。 日教組の手帳に憲法が載ったのは70年です。憲法を社会の実態にしていかないと、憲法があっても戦争をするでしょう。憲法26条の教育を受ける権利も、「能力に応じて」ではなく、「ひとしく」が前に出るべきです。しかし、現場の教員は余裕がなく先を急ぐので、どうしても能力主義になっています。 障がいがあっても孤立ではなく、皆の中で学ぶこと、どこにも障がい者がいる社会であってほしい。 

■労働運動に求めるものを聞かせて下さい。 

福田 
弾圧は激しいですが、関西生コン支部のような闘いが必要では。また、抑えるのではなく、大衆の自発的な活動を促進させることが大切ではないでしょうか。一点の火花も荒原を燃やす可能性を求めたい。 

北村 
かつて国労が元気な時には順法闘争で引込線に座り込んで電車を止めた。障がい児の運動に、労働運動が元気な時には応援がたくさん来てくれた。今はみんな後ずさりしています。 私は『戦争は教室から始まる』という本を出しました。今、教育勅語を教えろという政治家がいます。教育勅語につながる形で「道徳」教育も始まっています。9条が危ないと言ってもピンとこないと言われるけど、道徳教育が始まる時、私が大変だ、大事件だと言っても世間は反応しなかった。でも気づいた人が大変だ、大変だと言うしかありません。 

■「新しい戦前」といわれていますが、若い人に伝えたいことを。 

福田 
戦後50年の村山談話と70年の安倍談話は質的に違います。過去の反省を忘れ、記憶から消すのが新しい戦前の特徴です。戦前は情報統制があり、今もマスコミが政府の顔色をうかがっています。 

北村 
戦前は女性に参政権がなく、国防婦人会として戦争に協力させられました。今は女性が戦争に反対して運動する。戦前にはなかったことだし、情報や宣伝だって、今は個人が発信でき、多くの人に伝わる時代です。 

福田 
かつて朝鮮を植民地として多くの被害を与えました。中国にもそうです。中国人を1200万人も殺した。これは相手を人間としてではなく、劣等民族や獣けだもの扱いしなくてはできません。これはパレスチナのガザで行われている虐殺と同じで、その前例となっていることを反省しなければなりません。